Twitterと自他境界

ここ数年、昔ほどTwitterに投稿しなくなりました。理由はひとつで、Twitterユーザーの自他境界の薄れを感じるからです。昔もそういう節はあったけど、年を追うごとにどんどんエスカレートしているように思います。

あのナイル川、アマゾン川、長江みたいなタイムラインには、たくさんの人がいるじゃないですか。わたしみたいな清貧の民もいるし、年収3000万円の人もいるし、田舎の人も、都会の人も、親がいない人も、いる人もいる。

同じ言語を話し、同じタイムラインを流れているので、なんだかおんなじような人間であるような気がしまっているんですが、かつての日本であれば交わることなんてなかったようなレイヤーの人たちが、玉石混交となってそこに存在している、してしまっているのが現状のTwitterだと思います。

さっき、年収とか住む土地について言及したんですが、そこから派生するのは個々の考え方で、もう本当に驚くぐらい考え方が違うわけです。ドバイ住み外資系投資銀行のハイパーサラリーマンと親なし家なし中卒パチプロと何も考えずに生きてきた会社員の私で座談会したら、どんなテーマだってめちゃくちゃになるでしょう。

そうやって想像すれば簡単にわかるはずなのに、Twitterだとみんなすごい勢いで引用RT(もしくはエアリプ)するじゃないですか。人の考えに被せて自分の意見を言うじゃないですか。

画面の向こうの他人がどういう生まれで、どういう育ちで、どういう教育を受け、どういう生活をしているか、断片的にしか知らないのに、おおよその情報でこういう状況だろうと仮定し、自分の価値観に基づいて喋るじゃないですか。

ふと目に入った他人の発言を自分ごと化することに、まったく抵抗がないじゃないですか。

怖いよ〜😭

Twitterは「個人的な発信をする場」であると思っているので、個人的な話をするのはまったく構わないんですが、知らない他人の発言に被せてコメントしたり、自分ごとに置き換えて断罪したりするのは、また違う話だなと思います。

私の場合、自分の大切なもの(好きな人達や、大事にしている価値観、心の柔らかい部分)に関することをTwitterに投稿すると、自分本意な意見をぶつけてくる他人が高い確率で出現するので、プライベートな部分についてはほとんど呟かなくなくなりました。別にそんなの無視すればいいんですが、ストレスを感じてまで発信する必要もないので、私は投稿しない方を選んでいます。

知らない他人の発言や人生に意見することがなんでこんなに一般的なんですかね。道端ですれ違った知らないおばあさんに「そのワンピース、かわいいけど私にはちょっとクラシカルすぎて着れないかな」「センスがないってわけじゃないけど、あんまり服に興味がない人って感じがする」なんて絶対に言わないのに、SNSだと平気で言ってる人いますよね。あくまで個人の意見ですみたいな顔して。相手は道端のおばあさんと同じ、知らない他人なのに!

以上の理由から、個人的な価値観を発表する場としてのTwitterはどうにも好きになれないんですが、情報交換をする場としてのTwitterは好きなので、便利なものとか、買ってよかったものとか、そういうお得な情報の受発信はこれからもしていきたいなと思います。

ユーザーが自他境界を失っているのはTwitterだけの話でもなく、全てのSNSに通ずることだと思うので、こういう自分の考えみたいなものを書くのはSNS以外がいいな、と思ってこの裏庭みたいな場所に書いています。noteも結局SNSだからね ダメ

朗らかな暮らし